走ることとの付き合い方


 この「マジックランナー」は、自分考え方と取り組みを振り返り、確認するこために1998年頃から2000年にかけて作り始めました。
その当時、時の流れとともに社会は変化し、自分を取り巻く環境、そして自分自身も変化していくことは免れることのできない必然であることを意識しつつ、これまでの自分への労いと、将来の不安と楽しみを胸に秘めてこの「マジックランナー」を作りました。
 そして、その後20年以上の時が流れ、中学校1年生で初めて通信陸上に出場してから、50年近い時間が経過しました。この半世紀の間に予想以上に社会は大きく変化し、自分自身も大きく変わりました。
 社会の変化への対応を余儀なくされ、環境も変わり、身体も消耗して今や内臓機能の障害や足の痛みに常に悩まされています。
 しかし、それは覚悟の上だったはず。今求められるのは同じように今の環境と自分自身を受け入れて、考え方や取り組みを更新していくこと。
経験から生じた副産物である既成の概念、プライド、執着心と闘いつつ、自分としっかりと向き合うために、この「マジックランナー」を新たに更新していきます。そしてこのページの冒頭に書いた、少ないお小遣いを手にした布製のマラソンシューズ「マジックランナー」(オニツカタイガー製)を履いた時の感動を忘れることなく・・・・・。
(2022年10月24日 61歳の誕生日にて)

「十牛図」に重ね合わせて

 禅の教えに「十牛図」というものがあります。これは、禅の修行において、悟りの境地に達するまでの段階を「牛」を求める青年の話に例えて10の段階を示したものです。 
調べるとさまざまな解釈が見受けられるのですが、自分なりに解釈してみると、自分の「走ること」とのかかわりについて、ここに大きなヒントと共有点があるような気がします。

 ある日、一人の青年が牛を求めて旅に出ます。当時は貴重な財産とされていた牛を得ようと行脚します。青年は、やがて牛の足跡を見つけます。牛の存在を確信し、足跡をたどっていきます。そして、牛の体の一部を見かけ見かけます。牛全体を見つけたわけではありません。その姿の一部を目にするのです。
 
 青年は、牛を得ようと体に手をかけます。しかし、野生の牛はつかまるまいと大暴れします。青年はせっかく見つけた牛を手放すまいと力を振り絞ります。
 牛と青年の格闘は続きます。

 小学校低学年の時に、日常的に忘れ物が頻繁で言われたことができないことで母親が呼び出されたり、はっきり自分でものが言えないことで時あるごとに問題にされていた自分が、学年が上がるごとに身長が伸び、走るのが速くなっていき、校内マラソン大会の順位が上がっていくことで、それまでの自分がうそのように改善されていくのが、自分で実感するようになりました。それは「褒められる」ことから始まりました。
 何か一つでも人から褒められ、自信を持つことで大きく変われること、そのきっかけが大きな転機となることを学びました。
 中学校生になって数か月で、いきなり通信陸上に出させてもらい、9位という成績をあげました。そこから、競技として走ることが始まります。
「勝つ」こと、「記録を出す」ことを目的にした取り組みが始まります。
  
 「走る」ということは、身体的な障害がなければ誰でも、いつでも、どこでもできます。「人より速かった」ことがきっかけとなったり、逆に何かを否定するための逃げ場だったりします。長距離の選手の中には、もちろん名声を得るためだったり、他の競技が大成しなくて転向したり、その入り口は様々です。
 「走ること」は、いかなる動機にも門戸を開いてくれています。

 スタートラインにたつと、もちろん誰よりも速くゴールすることを目指します。まだ、そうでなくても記録という果実を目指します。
 そのためには、より厳しい練習をこなさなければならないし、日常生活においても我慢を強いる場面も多くなります。また、時には思い通りにならない自分の感情との闘いなどさまざまな闘いがあります。
 しかし、それでも求めている勝利や記録を約束するものではありません。ただ、こうした闘いを経なければ挑戦権を得ることができません。

「勝てるかもしれない」「記録が狙えるかもしれない」といった『牛の足跡』を見つけ、その姿を見つけ、自分の手に収めようと格闘する姿なのです。

やがて、格闘の末、牛と青年は疲れ果て、いつしか牛はおとなしくなっていきます。牛は青年が引くままに歩き始めます。青年の笛の音を聞きながら、やがて青年を背に乗せて、彼の家に向かいます。青年と牛とが一体になるのです。

 さまざまなレース経験を積み、自分にあった練習や生活がわかってくると、やがてその取り組みと結果の相関関係がわかってきます。どのくらいの練習を積めばどのくらいの記録がでるのか。逆に目標としたレースに勝つには、どんな練習をどれくらいやればいいのか。「走ること」が自分の中でしっかりとフィットしてきます。

 ようやく『牛』を手に入れたのです。
 

牛を手に入れた青年は、家に連れて帰り、平穏な日々を送ります。すると青年は、牛のことをすっかり忘れてしまうのです。あれほど求めていた牛が、やがていなくなり、そのことすら気づかなくなるのです。長い月日を経て、青年は牛がいなくなってしまったことも、あれほど強く牛を求めていた自分自身すら忘れてしまうのです。幸せな平穏な日々が彼を包みます。

禅の教えでは、「悟りを忘れたところに悟り」がある。また、キリスト教においても「神を忘れたところに神はいましたもう」という言葉があります。本質は意識を超えたところにあるということだと思います。身近な例でいうと、本当に一生懸命、切羽詰まった時には「頑張ろう」という意識すら忘れてしまっている。
 もう一つ例をいうと、大学時代に箱根駅伝を前にして、当時の中村清監督は本番が近づくにつ入れて「勝とうと思えば負ける。負けようと思えば必ず負ける。」「勝とうと思わず負けないように」と何度も諭されました。
 「勝とう」と意識することは、まだ、暴れる牛を手に入れるための俗世の闘い。突き詰めていくと「勝とうとする自分」すら忘れてしまう。いわゆる境地。
思い出すのは、映画「炎のランナー」で最後に400mで金メダルを手にするエリック。確固たる信仰心をもち、決勝で感謝、喜びを全身に感じながらゴールする彼。
 勝つためにすべてを捧げてきた彼が最後に得た世界こそが、最後にたどり着く世界なのだと思うのです。

 貴重な財産である「牛」を探し、追い求め、手に入れようと苦闘する姿。そして、さまざまな苦難を乗り越えて「牛」を手に入れる。ここまでで十分にサクセスストーリーであり、誰もがこのストーリーを追い求めるものです。
 そのことは、とても崇高で賞賛されるべきことだと思います。

 そして、その次にあるもの。それは、いつのまにか「勝つこと」や「結果を得る」という意識を忘れて、ただ取り組むこと。ただ・・つまり只管に取り組むことです。
禅宗には、悟りの境地に達する座禅ではなく、ひたすら座禅を組む。「只管打坐」という言葉があります。
 自分は特定の宗教には組していませんが、こうした思想は、走ることにも言えることだと思うのです。
 「只管に走る」とでも言いましょう。