いろんなエピソードを集めました。
裏話
ハプニング
出会い

エピソード









【子供のこころ】
 レースに出ていたころは家族がまだ寝ている毎朝5:30に静かに起きて朝練習に出かけるのが日課でした。冬の外はまだ真っ暗で、寒さも厳しいというのに次男が必ずいっしょに起きてきます。ちょっとした物音で反射的に起きてしまうのです。急いで着替えて外に飛び出そうとするとき、次男が駆けてきて「握手でバイバイバイ!」そして、ドアが締まるまでバイバイしつづけます。さらにマンションの通路に出て、子供部屋の窓をあけて、さらに「バイバイ!」。マンションの5階の階段を降りて走り出そうとするとき、マンションの窓から大きな声で「パパー!」まわりの部屋はまだ真っ暗、皆眠っています。そこで大きく手を振って、やっと朝練習に出かけられるのです。
 朝6時前ではいくら何でも近所迷惑だし、かなりの寒さです。今日こそは次男に言い聞かせようと「朝はバイバイをやめよう。」次男は返事をしません。もう一度「ねえ。やめようよ。」
すると次男は重い口を開けてこう言うのです。
「心配だから・・・」
「・・・・」何と答えたら良いでしょう


【シューズを買うなら】
 最近のシューズは厚底シューズが世界を席巻しています。
自分の頃にはできるだけ薄くて軽いものが重宝されました。できるだけ素足に近く、着地の衝撃を和らげるもの。ところが、今の厚底シューズはそれ自体がスピードを生み出す。ソールの素材も昔からは考えられない革新的なものです。
 しかし、私のようなオールドランナーがこの厚底シューズを履いたら、力以上のスピードに足が対応できずにきっと傷めるだろうなと思います。
大学生ランナーを見ても厚底シューズがほとんどですが、故障者もかなり多くなっているように思います。
 おそらく、このシューズに対応できるような筋力、走り方の構築という観点が必要になってきていると推測します。
 感覚的にいうと少年野球で時折使用される打球のとぶ「ビヨンド・マックス」なるバットの登場と同じ状況のように思います。
  一番のネックは数万円とういう価格。なかなか手が出ない。今のお小遣いでもとても買う勇気がありませんし、私にはスポーツ店のワゴンで売られている型落ちしたシュー ズで充分です。それでも私のランニングのパートナーとしては十分すぎるくらいです。


【参加賞Tシャツのやま】
長年ロードレースに出るとかなりの参加賞がたまります。そのほとんどがTシャツ。
しかし、Tシャツは結構長持ちするもの。どんどんたまります。けれど残念ながら、ほとんどが「Lサイズ」私は「Mサイズ」なのでほとんど着られません。子供の将来のためにとっておこうかなとも思うんですが。気になるのはTシャツには「****年」とプリントされているのです。子供が着る頃には、年代もの。きっと「もっと価値が出ているのでは・・・」(何でも鑑定団)



【走る博物館】
 
 昔から、道具には無頓着な方で、ここ10年間ジャージやウインドブレーカーを買っていません。今はやりのルーズソックスとか厚底サンダルのように、ジャージやシューズにも流行があるようです。
私の中学時代は「マラップ」という布製のズックのようなシューズで、布ですからすぐに親指が抜けて穴があきます。ソールなんて今のように何層もなく、ゴムがべろっとついているだけ。けどマラソンシューズとしては当時画期的なものでした。そう「最先端」です。そして親指が破けて抜けているのがポイントです。(貧乏くさい?)
ジャージは昔ホッピング(足首がゴムでつぼまっているもの)が最先端、いまは殆ど見かけなくなりました。
マラップはさすがにありませが、今私の身につけているジャージやウインドブレーカーの中には30年以上前のものもちらほら。だれももっていないようなモデルのものばかり・・・。
けれど信じているのです。「もう一度ブームがやってくるのでは・・・。」


【ジュニア】
 
かつて、埼玉県の比企丘陵森林公園でジュニアクロスカントリー大会を企画して開催しました。
当日は近隣の大東文化大学の学生による小学生ランニングクリニックが開かれ、多数の小学生が参加しました。
 ところで、小学校から長距離をやっている選手はあまりいません。私自身も中学まで野球をやっていましたし、多くが野球やサッカーやその他のスポーツをやっていた選手が殆どだと思います。
正直いって、陸上の長距離は非常に単調であり、球技に比べたら華やかではありませんし、他者とのつながりもさほど必要とはされません。やはり、子どものころはテレビで放送される華やかさと、たくさん友達ができる競技をやらせたいのが親の気持ちでしょう。
 正直言って自分もその一人です。3人の息子は野球から始まり、その後も球技を続けました。
自分自身はどうかといえば、やはり野球から始まり、陸上は中学校で借り出しで出場していました。
 しかし、高校に入り体格的に恵まれていなかったこともあり、陸上に転じました。
言葉は悪いですが、長距離は他のスポーツで通用しなかった人達の集まりみたいな感じでした。
 でも、それで良いのではないかと思っています。
ジュニアの時期に1つの種目に固めてしまうことは、競技生命の短命化を招くとも考えられます。
 私が見たクロスカントリーでのジュニア選手たちは、普段野球をやっているかもしれないし、サッカーをやっているかもしれない。でもそうした子どもたちがいっしょに用意ドンで走る。普段活躍している子どもも補欠で試合に出られない子どももすべてがレギュラーです。
 こうして皆が生き生きと息を切らして走る。そんな体験も大事なのではないかと思いました。


【ブリーズライト】
 走る世界にも「はやりすたり」があります。かつて山梨学院大学が箱根駅伝で活躍した頃につけていた「スパイラルテープ」や中央大学が箱根駅伝で優勝したときに使っていた「水晶」など、その時々大きな大会を制したチームや選手の使っていたものは、やはり一般のランナーも真似をするものです。
 「ブリーズライト」をご存知でしょうか。これは商品名で一般的な名称ではないかもしれません。
そう、鼻に貼るバンドエイドのようなもの。アトランタオリンピックの時に男子マラソンで優勝した南アフリカのチュグワネ選手がつけていました。
 私がはじめてそれを目にしたのは、トラックの記録会での高校生です。最初は鼻を殴られたのか、怪我をしているのかな?と思ったら、会う選手みなつけているではありませんか。
 私が遅れているといえばそれまでです。
鼻が大きく強調されて、メガネをつければ「鼻メガネ」だな。なんて揶揄したものです。しかし、チュグワネ選手をはじめ、皆が付けていると「効果があるのかな?」なんて思ってしまいます。
 しばらくして私も買ったのです。
ところが、つけて走ってみると、どうしても気になってしょうがない。とうとうつけるのを止めました。きっと世間の流行には乗れない性分なのでしょうか。
 しかし、今も財布の中や手帳の中に持ち歩いているのです。
なぜかって?たったひとつだけ効果があるのです。それは何かって?そう、それは「いびき防止」なのです。旅行へいったときのための。家族思いの私がそこにいました。


【思い出に残る出会い(君原選手)】
 あれは、大学1年の時でした。競走部の派遣で、長野の松本に招待選手として10マイルのロードレースに出場した時です。
その時、いっしょに九州の新日鉄の選手も招待選手として来ていました。当然、同じ宿舎になり、同じ場所で食事をすることになったのです。
そっと、ふすまを開けて大広間に入るとすでに食事の準備ができていて、新日鉄の選手は食事をしていたのです。そして、その集団の横に腰をおろし、ふと横を見ると・・・。
 白髪の人物が真中に座っているのです。そう、君原さんでした。
とっても静かな雰囲気の中で黙々と食事をしている。「マラソンの青春」という君原さんの本に深く感銘をうけていた私にとっては、雲の上の人。
この本に出会って、走り始めた人も多いのではないでしょうか。
君原さんと言えば、東京、メキシコ、ミュンヘンの3回の五輪に出場し、メキシコが銀メダル、ミュンヘンが5位。
 静かな雰囲気に引きこまれ、簡単な挨拶は交わしたのですが、言葉にできない感動と緊張のひとときでした。
さて、翌日レースが終わり、主催者の用意したバスで松本駅まで送ってもらい、電車の時間までいっしょに食事をしようということになったのです。向側の席に君原さん。
 まず、最初に頼んだのが、なんとビール。昼間だと言うのにどんどんグラスが空いていきます。あっという間に赤ら顔。ビールが好きなことは本で読んで知っていましたが、半端じゃないなというのが感想。
 そのうち、物静かな君原さんが一変して、饒舌になり、たくさんの話しをしてくれました。
今、思い出すのは「こうした人との出会いが大切」そして「マラソンは、真剣に記録を狙っても気温や天候などの状況でなかなかうまく行かないことも多い、そのくせ駄目だろうなと思ったときに条件によって思わぬ記録が出たりする。難しい反面、だからおもしろい。」
もう何年も前のこと。君原さんは覚えていないと思うけど、僕にとって一生涯忘れられない出会いでした。


【日本に来たケニア人ランナー第1号 ダグラス・ワキウリ】
 あれは、大学2年か3年の時でしょうか。当時は日本のレース、特に駅伝に外国人選手がプロ野球のように出場するなど想像もつきませんでした。
そんな時代に、中村清監督は外国人留学生を入学させ、外人チームを作ると言われていました。私をはじめ「まさか」が正直なところ。しかしながら、まんざら冗談ではなかったようです。中村監督の言われることだからきっと何かあるなと思ってましたが・・・。
 それから暫くして、彼がSB食品陸上部に来たのです。「ダグラス・ワキウリ」
当時、瀬古選手を要するSB食品の中村清監督は早稲田大学の監督を兼務していました。
 ケニアの高校を卒業して日本にやってきた青年は、私たち早稲田大学の選手と同じ様にスポーツ刈りにしてきました。彼の頭髪は日本人のそれと違って、バリカンがスムーズに通るはずもなく、なんとも言えない「トラ狩り」というのでしょうか。
それにしても、彼の足はすごかった。「同じ人間なのか」と思わせる筋肉。練習を重ねるうちに、太ももは馬のように発達し、足の細い選手が多いケニアの選手にはない日本のマラソン選手の足に発達していました。
 ある合宿の時、彼の日本語もいたについたころ、マッサージで横になっていたダグラスの足元を部員が跨いでいくと、彼はこう言うのです。
「ひとの上を跨いだらいけない。」
すっかり日本的になってました。
 あの身体的な素質と祖国をひとり後にしてきた彼の覚悟を考えると、その後の活躍はうなずけるものでした。
彼は、ロンドン世界陸上のマラソンでケニア人初の金メダルをもたらし、ソウルオリンピックでは銀メダルを獲得したのです。


【激闘!バンコクマラソン】
 右足のひざ内側に傷が残っています。この傷を見るたびにバンコクの激闘を思い出します。
あれは何年前だったでしょうか。知人がバンコクに住んでいたので、誘いもありバンコクマラソン(ハーフマラソンの部)に出場したのです。
初冬の12月はじめ、でもバンコクは全く逆の30度以上の蒸し暑い夏の気候です。
前日、妻と成田に向かい、チェックインし、搭乗を待っていたところ、突然アナウンスで出発便は6時間以上遅れるとの放送。「うーん、この調子だとスタート4時間前に現地入り、飛行機に約7時間乗ったとして、きついなあ。」いやな予感です。

 約6時間ロビーですごし、ようやく出発。機内ではリチャードギアの映画「背徳の囁き」。思わず見入ってしまいました。そして寝たり、機内食を食べたり。
到着すると、知人の出迎えで知人宅へ、そしてとにかく寝て、会場へ出発。冬の日本と違って蒸し暑いこと。
 実は、知人の触れ込みで現地の日本人の中では私の出場が結構話題になっていたのです。
さて、スタートラインの先頭列に位置した私は、号砲を待っていたのです。そしてカウントダウン。
「おや、何か変だ。目の前がFade Outしていく。だんだん白くなっていく。まずい!意識が薄れていく。貧血だ。このままスタートしたら後続に踏みつけられる。」必死でそう判断すると急いで這いながらスタートラインから外れて、沿道にようやく出て、座り込んだのです。そしてじっと意識が戻るのを待つことにしたのです。
かすかに、スタートのピストルを聞きました。
 気が付くと、まだスタートして間もないのか、係員が何人かいて、私を覗き込んだりしています。ふと足をみると「血まみれ」です。スタートラインの横断幕の柱の釘に引っ掛けたようです。
 言葉が通じない。私はゆっくりと歩き出し、妻と知人を探したのです。「いない」そのまま血まみれで付近をさまようこと1時間。トップのゴール。ゴール付近には人だかりができつつありました。
 そして、その中に妻と知人を見つけたのです。聞くと、スタートしてゴールまで時間があるのでホテルでコーヒーを飲んでいたらしいのです。
翌日、私のことは現地の日本人の中ではちょっとした話題だったそうです。
最初の海外レース。やはり無理はいけません。まさに激闘!です。


【女子マラソンに思う(佐々木七恵選手)】
 シドニー五輪の女子マラソンでは、橋尚子選手が金メダルを獲得し、次のアテネ五輪でも野口みずき選手が続き、二人とも完璧なレースでの勝利でした。
また、日本の女子が2時間20分を切ろうとは、昔では考えもつかなっかたことです。
 私の大学時代、当時中村清監督の下には瀬古選手と並んで、もう一人のオリンピックマラソン選手がいました。女子マラソンの佐々木七恵選手です。
女子マラソンが普及し始めたころ、男子マラソン並にマラソンに取り組んでいた女子選手はそう多くなかったと思いますが、その代表的な選手が増田明美選手と佐々木七恵選手でした。
 中村清監督が、SB食品の監督を兼ねていた関係で、私も時折練習を目にし、その練習量の多さには参りました。20Kを2本、3本。それはもう男子でもなかなかこなせない。そしてその生活姿勢は、もう真似のできないもの。
 ある日、中村監督に指示をされ、神宮外苑で佐々木選手の20Kのタイムトライアルのペースメーカーを言い渡されたことがあります。それも当日に・・・。
スタートすると、スピードはまだ勝っていたかもしれませんが、距離を重ねるごとにリズムが上がっていき、気を抜くとあおられる。真剣そのものです。私も調整していたわけではありませんし、手頃な選手だと思ったから監督が指名したことはわかっていました。
 それだけに負けるわけにはいきません。今思えば、まんまと監督のペースに乗せられていました。ペースメーカーどころか、後半は気を抜けない真剣そのものでした。
ゴールしてみると、1時間9分台。当時、ちょっとした大学生なら負けていたでしょう。
 地元の教師という安定した職を捨てて、単身東京に出てきてのマラソン挑戦。当時、はじめて女子マラソンがオリンピック種目に採用されたロサンゼルスオリンピックで、実績を残した佐々木選手は、その後、残念ながら病気で亡くなりましたがまさに現在の女子マラソンの先駆者だと思うのです。
 


【信毎マラソン(現長野マラソン)のお土産】
 信毎マラソンは、現在長野オリンピックを記念して、長野マラソンとして3月下旬から4月上旬に行われています。
1991年3月にその前身である信毎マラソンに出場した時のことです。
妻といっしょに前日に長野市に入り、せっかく長野に来たのだからということで、善光寺に行ってみようということになり、市内から伸びる長い坂道をひたすら登っていったのです。
 バスが通っているところを見ると、結構距離があるようです。
ようやく善光寺に着き、階段を上っていくとたくさんの土産物屋さんが左右にならび、多くの旅館(宿坊)が並んでいるのです。
 どこのお寺もそうですが、お寺を中心に集落ができているという感じです。
一通り、境内を見て回り、近所にお土産でも買おうかと、土産物屋の店頭を眺めていたのです。すると、中から店番をしているおばあさんが出てきて、「寒いね」「どこから来たの」と声をかけてくるのです。
 他愛もない話をしていると、「寒いからお茶でも飲んでいきな。」と言うのです。言われるがままに店の奥に導かれ、ちょっとしたテーブルに招かれたのです。
都会(?)に住んでいると、とかく初対面の人と接する時には、どうしても警戒してしまう習性があるようです。恐る恐るお茶をご馳走になっているうちに、次第に警戒心もなくなり、善光寺の話などを話してくれました。
 3月下旬の長野は、まだまだ寒いです。そんな中でとても暖かいお茶をご馳走になり、ちょっと良い気分でおばあさんと別れたのですが、どうしても人との出会いに対して、警戒してしまうのは、最近、打算的な出会いしかない日常生活のせいでしょうか。
とても良いお土産ができました。


【子供のこころA】
 次男と三男は、近所の保育園に通っていました。もちろん母親が残業のときは私がお迎えに行くのですが、時にその頻度が多くなることもあります。
朝は毎日父親の私が送るのですが、これまでは母親が迎えに行くというのが通常のパターンです。
 私が迎えに行くと。最初のころは「パパ〜」と言って走って来てくれるのですが、何日間か続くと、保育士の先生が「パパ来たよ」と言っても構わず遊んでいるし、パパを見たとたんに「あれ?ママは」という具合です。
 ある日、残業で夕食に遅れて帰宅してきた母親の耳元で三男がひそひそ話です。
その晩、三男が何を言ったのか聞いてみると・・・。な、な、なんとこう言ったというのです。
「ママのお迎えがいい」・・・。
 翌日、やはり私がお迎えになりました。そして手には子供の大好きな「ビックリマンチョコ」。
父親が子供の気を引くにはこれしかないのでしょうか。


【小さなきっかけ】

 誰にでも心に残る言葉があると思います。小さい頃に言われた言葉や何かの転機に言われた言葉。

話した方には何気ない言葉でも、時として一人の人間の一生の転機になる場合があります。もしかしたら、私自身が何気なく発した言葉が人の進む方向を決めてしまうこともあったかもしれません。

 私の小学校時代は、やんちゃではありませんでしたが忘れ物も多く、宿題も忘れ、勉強もついていけない暗い思い出しかありません。しかし、小学校6年生になって、仲良くなった友人が、男子ではありましたがとても字が綺麗で、僕も少し真似て書いてみたのです。

 ある日、担任の先生が出張で、となりのクラスの先生が自習の監督にはいった時です。机を巡回しながら僕の机の前でふと足を止めて、こういったのです。

「きれいな字だね。」

 その日はうれしくて、それ以降ノートに字を書くのが楽しみになったのです。

小学校6年生の最期の半年には、後ろから5番目ぐらいの成績から、前から5番目くらいになっていたのです。

 「しかることより褒めること」最近良く言われますが、10回しかられるより、1回褒められることのほうが効果があるのでしょうか。

 


【金井さんの一言】

 大学1年生の頃、箱根駅伝のエントリー1ヶ月前に体育の授業で捻挫してメンバーをはずされて以来、2年生になってもやる気がおこらず、記録も伸びず・・・・といった頃、当時キャプテンの金井さん(SB食品でロス五輪10000m7位に入賞され、その後不慮の事故で亡くなられました。)と練習の帰りにいっしょになり、笑顔でこう言われたのです。「強くなりたかったら簡単だよ。毎朝欠かさず10k走れば30秒くらいは記録が伸びるよ」・・・。

「そうかな?」と思いながらも「やってみよう。」・・・

それまでは朝5Kだったり散歩だったり、それが朝10K。当然走行距離は月間200K以上伸び、1時間目は眠かったり、通学の電車では常にうとうと・・。

 そして、3年生になってから記録が伸びはじめて安定し、めでたく箱根駅伝のメンバーに選ばれたのです。

朝10Kなんて今ではなんということはない内容ですが、今考えると、金井さんの言われたことは「朝10K走れ」ということではなく、「朝10K走る姿勢を持て」ということだったように思います。

 金井さんは亡くなられましたが、あの笑顔の一言が私を助けてくれた。「ありがとうございました。」と心から思うのです。


【恐怖の体験】

 長く走り続けていると、さまざまな場面に遭遇します。

<襲い掛かる犬>
 かなり前の話しですが、休日の朝にホームコースの一つである米軍通信基地の周りで朝練習をしているときに、向こうから犬を散歩している初老の男性と出会いました。このコースは車道とは仕切られているものの人がすれ違うのがぎりぎりの狭いコースです。
 気を付けながらその男性とすれ違うその時、急に連れている犬がうれしいのか?興奮しだして飛びかかってきたのです。
 「あっ!」と思った時には時すでに遅く、ハーフパンツの足に飛びつき、しびれた感覚が。。。。 どうやら噛まれたのではなく、引っかかれたようです。
 ふと立ち止まって抑えてみると鮮血が流れ、今でも傷が残っています。

<第一発見者>
 朝のランニングコースは、必ず公衆トイレのある公園をいくつか経由します。
 その日は、かなりの雨でした。朝練習は雨でも関係なく走るのでウインドブレーカーを身に着け、1つ目の公園に入り、ルーティーンのトイレに入りました。
トイレをでてふと見ると、ベンチが一つあるのですが、傘が開いたまま放置されており、ベンチには人影が・・・寝ているようでしたが傘が放置されているので、強い雨に打たれているのです。
 ・・・・まさか・・・・と思いつつ近づいてみると、そのまさかのようです。寒さ以上に身震いしながら近くの交番(無人)で直通電話から状況を話しました。
 その日の昼前後、警察から電話があり、どうやら病死だったようです。そういえば公園付近にはそこで生活している人がいました。
いくつかの事項を聞かれましたが、人生ではじめて第一発見者となったのです。

<好まない遭遇>
 これも朝練習での出来事でした。航空公園を走るコースも好きなコースの一つです。
 その日の朝、航空公園に差し掛かり、公園へと入ろうとしたとき、散歩している老夫婦が何かひそひそ話しながら、小高い丘の上を見ています。
そこには、制服の警察官が一人立っていて、そのわきに私服の人がいるのです。なんだろうとみてみると、警察官の横にいる人は足が地についてなく揺れているのです。
 状況を悟った私は、ペースをあげたのは言うまでもありません。