My  History

の歴史なんて、面白くないですよね。あくまで自分自身のための自分自身によるページです

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大学を卒業するときに「実業団で・・」なんてふっと思いましたけど、自分の力を知ってましたので、実力でこの世界で生計を立てようなんて無謀だと思いました。なぜなら、当時全盛期だった瀬古選手と中村監督の生活を見て違う世界だと実感していたからです。その後は朝出勤前と仕事がひけてから黙々と一人で走っていました。
大学3年の時に箱根駅伝で優勝しましたが、4年の時に故障で走れず、学生時代の思い出はどちらかと言うと悔しい方が大きいです。だから、自分の力でどこまでできるか試してみようという気持ちはありました。

 そもそも私のマラソンとの出会いは、中学1年生の時ですから今からもう23年前になります。野球部に所属していながら借り出しで「通信陸上」の1500mに出て9位になったことがそもそもの始まりです。
中学校卒業までは野球部に所属してましたが、顧問の先生が陸上専門の先生で、2年のときに長距離専門の先生が赴任してきてから大きな影響を受けました。
高校から陸上部に所属しましたが、陸上でも棒高跳びの有名な高校だったので、長距離は自分達でやっていた程度でしたが、本を読んでは計画を作りがむしゃらに走ったものです。そのせいか、高校2年の冬に疲労骨折で走れなくなり、高校3年には反対の足を疲労骨折し、ほとんど満足な練習はできなかったのを覚えています。ただ、顧問の先生が熱心な先生で、中学・高校と非常に指導者に恵まれたのが唯一の救いです。

大学進学の時、いくつかの大学には合格しましたが早稲田だけは落ちました。当時の早稲田は瀬古選手が卒業し、その余韻で駅伝では憧れの的でした。そこでもう1回挑戦しようと決心し浪人したわけです。浪人中は、予備校へは行かず、一人家にこもって勉強し、夕方には黙々と走っていました。この1年間で高校時代15分45秒だった5000mが14分48秒まで伸びました。

さて早稲田に入学し、当時競走部では実績のない選手の入部を断っていた状況でした。もちろん私も論外。そこで高校時代の恩師が掛け合ってくれて、3000mの試験をし、9分を切ったら入部を認めようということになったのです。
その日は雨でした。ちょうど他の試合の調整をしていたので8分52秒で合格。はじめは準部員でした。

それから今まで15年の年月を経ているわけですが、決してエリートでない自分の経験から、同じように実績は残せなくて一生懸命走っている人達の一助になれば幸いとこのホームページを開設したわけです。

今でも一人で走りつづけています。ロードレースには「FFクラブ」で出場しています。見かけたら気軽に声をかけてください。


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